『1999年のサーフトリップ』第9章 その1

ローカリズム>

ローカリズム(地域主義)とは、地域住民の自発的努力によって、政治や文化において各地方の独自性や自立性を高めようとする考え方をいう。

「ローカリズム」という言葉を検索するとそのように記されている。

 また、こんなのもある。

ローカリズムとは……自分たちの生きている地域の関係を大事にし、つまり、そこに生きる人間たちとの関係を大事にし、そこの自然との関係を大事にしながら、グローバル化する市場経済に振り回されない生き方をするということです。ローカリズムというのは、小さい単位の共同体、共同の世界を「われらが世界」としてつくり……世界を変えていく、そういう動きです。(内山節―哲学者)

「ローカル」という言葉を知ったのは小学生の頃だった。漫画「じゃりン子チエ」の中で喧嘩自慢の猫たちが確かこんな会話を交わすのだった。

「お前もこの際ローカルから一気に全国目指せばええやないか」と年嵩の方が言う。」

「ああっ!?ローカルって、お前やっぱりわしのこと田舎もんやとバカにしとんのやろ」と若い方の猫が言う。

「そんなことないよ」

「じゃりン子チエ」というのは1978年から1997年まで青年誌で連載された大阪のホルモン屋を舞台にした漫画だ。かの井上ひさし氏が、かの朝日新聞の文芸時評で、

「見晴らしよい叙事詩。徹底的な大阪弁と登場人物が常用する独白に笑わされ、大人より子どもが大人らしく、猫が人間よりも人間らしく、猫の目のように移りかわる視点が物語世界に奥行きを与えているこの作品は近来、出色の通俗・大衆・娯楽・滑稽小説のひとつと言い得よう」

なんて口走ったことで、当時「ドラえもん」にすら迫る国民的人気を誇るに至った漫画である。この漫画の中で「ローカル」という言葉は明らかにネガティブな意味で使われている。都会に対する田舎、小さくて狭い場所から出てもっと広い世界を目指そうぜ。酸いも甘いも嚙分けた年嵩の猫、小鉄のセリフにはそんなニュアンスが感じられる。思えば「じゃりン子チエ」そのものが大阪ローカルを描いてそれを日本全国に知らしめたような漫画だった。少なくとも80年代、大半の日本人の中で「ローカル」という言葉は、「田舎」または「地方」と同義かそれに毛の生えた程度の意味しか持ち合わせていなかった。そして、その言葉の使い方は間違っている。

 言うまでもなく「ローカル」の反対は「グローバル」である。「city」でも「urban」でもない。だから、そこに人間がどれだけいるかは「ローカリズム」とまるで関係がない。証拠ってわけじゃないが、大都会東京にも「ローカル」がいて、ごく当たり前に「ローカリズム」がある。

 東京は嫌いやね。二度と住みたくない。できれば行きたくもない。だけど、十数年いたから感想のようなものならある。俺の感想では、東京というのは小さな村の巨大な集まりだ。

 例えば高円寺。下北沢でも六本木でもいい。新宿なら歌舞伎町、二丁目、西口。霞が関、永田町。どれも強力な個性を放つ一つの町として完結している。その個性に惹き寄せられて、それとも単に職場がそこにあるからという理由で人々はやってきては街をうろつき、通い、ある者はそこに住み着く。なにもそんなにアクの強い場所である必要はない。俺の住んでいた阿佐ヶ谷だって穏やかな住宅地ながら明確な存在感を持つ町だった。職場があった神田神保町にしても、書籍を中心とした出版、印刷、卸、販売とリサイクル、集まる人が食う店や彼らが憩う公園から成り立つ、機能性を持って完結した小さな集落だった。望洋と広がる地方の町と違って、車での移動を前提としない東京の町は小さくまとまりやすい。様々な人間がひっきりなしに出入りしていると町の個性はむしろ次第に明確になってくるものなのかもしれない。「ローカリズム(地域主義)とは、地域住民の自発的努力によって、政治や文化において各地方の独自性や自立性を高めようとする考え方をいう。」のなら、東京はローカリズムのひしめき合う坩堝以外の何物でもなかった。

 しかしまあ、どうだっていいやね。東京のローカリズムのことなんかさ。

 昨今の「ローカリズム」は、都市部への過度な人口集中と過疎化の波にさらされた地方との地域格差、それによって引き起こされる都市の災害リスクや地域経済の破綻といった社会問題の解決策として謳われる地域創生という文脈の中で登場することが多い。2014年に安倍内閣が日本全体の活力向上を目指す看板政策として「地方創生」を掲げて以来、官民挙げての様々な取り組みがなされてきたらしいが、コロナ禍を経てなお地方経済は相変わらず疲弊したまま。人々は2023年現在もやはり都会を目指す。たぶん、仕事や可能性や自由を求めて。人を求めて。

 しかし、サーファーはその限りではない。

 ローカリズム。

 もしあなたがサーファーだったなら、この言葉を聞いてすぐ心に浮かぶ出来事や思いがあるはずだ。それはたぶんどちらかと言えば不愉快な思い出であることだろう。サーフィン世界においてローカリズムはパドリングの基本技術と同じくらい、初心者が最初に直面する困難であり、ベテランと呼ばれるような古参サーファーになったとしても最後まで付きまとうテーマである。

 サーフィン世界の一風変わったローカリズムを理解しようと思ったら、まず波というものについて知っておかねばならない。いや、なにも物理学や海洋学的知識を開陳しようってわけじゃないです。とりあえずこの動画を観てみて下さい。

 マナー違反をしたサーファーがローカルと思しきサーファーにぶん殴られている動画である。彼のどこが悪いのか?途中から波に乗ってきたこと。言わば割り込みだ。これをやると怒られる。海上に並んで波待ちしているサーファーが相当数いる中で、あろうことか途中の岩場から波に飛び込む。動画の男の行為はあからさま過ぎて叩き出されても仕方がないのだが、なぜそのようなマナー違反が存在するのか?なぜ一つの波にみんなで仲良く乗ることができないのか?というのはサーフィンに興味のない人間にとってはいまいち腑に落ち兼ねる疑問じゃなかろうか。

 俺はサーフィンを始めるまでは波のことなどよく考えたことがなかった。一本の長~いウネリがどこか遠いところから遥々やってきた挙句岸辺で一遍に崩れるのだと漠然と思っていた。だから波の幅だけのスペースで皆がワ~イと一斉に波乗りを楽しめるのだと、そう思っていた。だってビーチボーズのPVのカリフォルニア・ガールズも、若大将だってそういう風にサーフィンをしていたから。しかしながら、一本の波には一人しか乗れないというのが実は波乗りの基本原則なのである。というのも、波というのは、サーフィンができるような波というのは決して一遍に崩れ落ちるものではなくて、山のように頂点があり、そこから徐々に割れて行くもので、その頂点に一番近い者、もしくは頂点に一番早く到達し、波の上に立ち上がった者がその波に乗る権利を得る。硬く尖ったボードを操るサーファーが一つの波に複数人乗るのは危険なのだ。いきおい、サーフィンは波の取り合いになる。波も海原も本来、ネイティブ・アメリカンがバッファローを追いかけていた頃の荒野と同じように誰の物でもないことは言うまでもない。サーフィン世界のトラブルもドラマもすべてこの「One man, one wave」の原則から始まるのだと俺は思う。

 ある地域のサーフ・ポイントに通う人たちがいて、彼らを「ローカル」と呼ぶ。ローカル・サーファーは必ずしも土地の人間ではない。

 なんだか長くなりそうなので、次回へつづくー

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Posted by aozame