久生十蘭作「手紙」に」添えて

2023年9月26日

久生十蘭作「手紙」の朗読upしましたyoutube編は少し効果音いれてます)。

「手紙」と云うのは傑作ではないけれど、おそらくは複雑な心の持ち主であったであろういち日本兵の死様を物語る主人公の心根の美しさと、舟旅の海上風景の絶奇な様がいつまでも心に残る作品です。云うまでもなくこの「手紙」はフィクションであるが、事実であろうとなかろうとこのような言葉がいつか誰かの頭の中に生まれて今ここにあると云うのは、日本人として太平洋戦争を経験した世代と未だ彼らの記憶を鮮明にする我々にとり救いであることに間違いはない。良かったら聴いてやってください。
先の大戦時にはアジアの至る所に日本人がいて戦争をして生きて死んだ。殺して殺された。「手紙」の舞台は主にインドネシアで、南方作戦の最前線だからそこに兵隊たちの物語があることに何の不思議もないが、東南アジア唯一の独立国であるタイにも戦争中たくさん日本兵がいた。欧米の植民地に囲まれた友好国タイは日本軍のインドシナ政策の重要な作戦拠点だったのだそうだ。当時あの位置にあって国の独立を保ち、戦争に対して中立の立場を維持すると云うのがどんな種類の努力を要する事柄だったか想像もつかない。先日タイの北部チェンマイで訪れたワット・ムーン・サーンと云う寺は当時日本軍の野戦病院だった場所で、観光客もまばらな静かな寺院の中に戦没者慰霊碑と共に戦争資料館のような建物が併設されていた。以下に載せるのはそこにある文献資料の中で目にしたものである。貴重な記事で、現在では外に発信されている気配もないので全文引用する。

「タイに生きて」~歴史の証人たち 27/10/2004

*名前:キアオ・ジャンタシーマ
*生年月日:1924年3月15日
*出身地:タイ国チェンマイ県

通常は大東亜戦争当時をタイで過ごし、現在まで生き抜いて来た日本人の方々の生き様を掲載しておりますが、前回より特別編として、当時の日本軍と深く関わったタイ人のインタビューを送りしています。タイ人から見た戦争・日本人はどのようなものだったのでしょう。

ー終戦直後のクンユアムでの日本軍の状況についてお教えください。
「そうだね、ひどいものだったよ。多くの兵隊さんが命からがら逃げ込んできたよ。怪我をしていたり病気の兵隊さんが多くいてねぇー。お寺に駐屯していたけど、兵隊さんが多すぎて普通の家にも二、三人、大きな家には五、六人ぐらいが宿泊していたよ。」
ーそうするとクエンユアムには全部で」どのくらいの日本兵が駐屯していたのでしょうか。
「村中いたるところに居たよ。何千という数だろうね。」
ー何か事件とか変わったことがありませんでしたか。
「そういえば、若い女がたくさんきていたよ。」
ー女性の兵隊ですか。
「いや、あれは違うよ。えらい将校がノーンパコン(*1)に大きな駐屯地を設けてそこに置いていた。それからお偉いさんの女は他の場所に居た。女はチェントゥン人も居た。広東人、インドネシア人も見たし、ビルマ人も見た。」
ー日本軍がビルマから女性を連れて来たという事ですね。
「連れて来た。連れて来たのは綺麗な女ばかりだった。」
ー何人ぐらいの女性が居ましたか。
「百人、二百人と居たかも知れない。中には幼子を連れている女も居たよ。そういえばある日、突然ほとんどの子供が居なくなった。本当かどうかは知らないが、子供に薬を注射してみんな殺してしまったと村の人たちがうわさをしていたよ。」
ーその女性達はどんな事をしていたのでしょうか。
「日本の兵隊さんにサービスしていたよ。その日は偉いさんの将校が来て、トーペー寺(*2)に入り込んで間違えて物を売らないようにと言っていた。」
ー寺にも居たのですか。
「そうだよ。多くはトーペー寺に居た。その将校馬にのっていたなぁ。」
ーその女性達は戦争が終わってからはどうしたのですか。
「帰る連中は兵隊さんと一緒に帰った。広東人は日本に一緒に帰ってその後日本から送り返したと聞いている。ビルマ人はチェンマイなんかに付いて行ったようだ。ああ、それから日本の女もいっぱい居たんだよ。日本の女はとても礼儀正しいねー。何でも偉いさんの娘が居たと思うけど…ちゃんと帰れたのかねー。」

ー話はご主人のフクダ氏の事に戻したいと思いますが、彼の上官について何か覚えていますか。
「フクダの居た駐屯地でかい。一人は尉官で着飾るのが好きな人だったねー、もう一人はキシダさん、足を悪くしていたよ。」
ー終戦後、フクダ氏と駆け落ちをしてキアオさんと結ばれた話は前回お聞きしましたが、結婚式はしましたか。
「私の父、ナイパンが結婚式をしてくれた。この辺の一般的な結婚式でね、朝、紐を腕に結び、お寺でお坊さんに祈ってもらった。父も母もフクダが国籍を取りタイ人として一緒に生活していく事を強く望んでいた。そして私の父がタイ語のサンペーと言う名をフクダにつけた。」
ー結婚当時は戦後すぐで生活は大変だったと思いますが、いかがでしたか。
「サンペーは本当に良く働いてくれた。自分の仕事だけでなく、田や畑の農作業や父の手伝い、村の仕事や料理まで作ってくれた。本当に幸せだったよ。」
ーサンペー氏の自分の仕事とはどんな事を?
「戦争で残った物を利用していろんな物を造っていた。鉄板でバケツを造ったり、電線で籠を造ったり、車の修理も出来たし電気工事もした。特に拳銃が評判が良かった。当時のお金で一丁百バーツで売れた。サンペーは一日に三丁造ることが出来た。ランパーンで大変な人気になりよく注文を受けたよ。サンペーは一生懸命働いてくれたので蓄えも出来、村の人が羨むような生活だったよ。クエンユアムの郡が機械の修理や電気工事、金属の加工などの仕事をサンペーに頼んでいたよ。今と違って公の仕事は誰でも出来るわけじゃないからね。村の人にも随分信頼されていたんだよ。たいしたもんだった。」
ー政府の仕事もしてたんですか。その中で一番大きな仕事はなんでしたか。
「ユアン川(*3)からの発電所の設備の仕事だったよ。仕事の終了間近で逮捕されてしまった…」

ーなぜ逮捕されたのですか。
「日本の兵隊さんは全員帰国しなければならないのをサンペーは脱走したからねえ…」
ー連合国の軍隊に逮捕されたのですか。
「いいや、郡警察(*4)だよ。郡の役場もサンペーを助けたくて何度も何度も警察に抗議したんだけど、なんでもお偉いさんの命令とかで助けてもらえなかった。」
ー逮捕された後、サンペー氏はどうなったのでしょうか。
「象にのせられてチェンマイに連れて行かれた。別れる時、今まで貯めたお金を全部持たせた。三万バーツはあったよ。地獄の沙汰も金次第って言うだろー。監獄で辛い思いをさせたくはなかったからね。」
ーチェンマイに連行された後は?
「サンパトーンのバンカートを通り、鉄道でバンコクのバンクワン刑務所に連れていかれたんだよ。父が何度となくクンユアムの役所に行ってはサンペーの様子を聞いていた。バンコクに連れて行かれて暫くたってからサンペーが重い病気に罹り外国人専用の病院に入院していると聞かされた。」
ー病気になったサンペー氏に会いにバンコクまで行ったのですか。
「クアンユアムの役所も、私が病院に行って釈放を願い出るようにと言ってきたが、行けるわけがないだろう。小さな子供が二人もいるし、お金もない。サンペーに持ってるお金を全部持たせたからね。手元には千七百バーツしか残しておかなかった。それに当時は今のように交通の手段がなく、どうしようもなかったんだよ。本当に祈るしかなかった。」
ーそれでは、病気になったサンペー氏はその後どうなったのでしょう。
「役場に聞きに行ったり、八方手を尽くしたがサンペーの事は何もわからなかったよ。」
ー先ほど小さいお子さんが二人と言っておられましたが….
「結婚して二年目に男の子が生まれた。ブアンアートと名付けた。日本人は男の子が好きなようでサンペーはとても可愛がってたよ。翌年下の男の子が生まれサグロンと名付けた。この時は娘が欲しかった様で『娘なら美人だから』と言ってたね。でも男の子で。この子が生まれてまだ数ヶ月目にサンペーは捕まってしまって…」
ーサンペー氏が居なくなった後の生活はいかがでしたか。
「それは大変だったよ。早く帰ってほしいと祈りながら必死で働いたよ。仕事に行くにも小さな子供を連れてね。女手ひとつで年老いた両親と二人の子供を養うのに苦労の連続だったよ。それまでは羨んでいた村人の見る目が変わってね。『何で日本人と結婚したのか』なんて陰口をいわれた。家族の働き手を無くし日に日に生活は苦しくなっていったよ。本当はとっておきたかったがサンペーの残したものを少しずつ売りにだし、生活費の一部にして食いつないだよ。」
ー今でも日本軍関係の方との交流はありますか?
「昔、ここに駐屯していた日本の兵隊さんが、何回か来てくれてね、ほれ、あんんたの座っている同じ場所に座ってね、話をして行ったんだよ。通訳も連れて来てね。三千バーツくれたよ。お菓子などを買ってきて、日本の兵隊さんを送った所に持っていって供えていた。あっそうそう来る時には電話があって私が迎えに行くと『やあ、フクダの奥さんが来た』という具合でね。その人は二年前に病気で入院したらしいが、その後、治ったのかねー。子供も居ると言っていたことだし、治っていたらいいんだけどー。」

(*1)クンユアムより北二キロの所。
(*2)クンユアムより西七キロの所にあるお寺。日本軍が多く駐屯していた。
(*3)タイ・ビルマの国境を流れる川。サルウィン河へと続く。
(*4)ホントーン中尉他三名の警察官により逮捕。フクダ氏はチェンマイへの護送中逃亡を企てるが、逃亡中に足を撃たれ失敗に終わる。

ー以上。

そう云えば、先月号の「月刊文藝春秋」で村上春樹が太平洋戦争に従軍した父親についての手記の中でこんなことを云ってた。

「言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と。」

かっこいい。さすがスーパースター。

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Posted by aozame