冒険者たち

2022年10月1日

冒険とは日常とかけ離れた状況の中で、なんらかの目的のために危険に満ちた体験の中に身を置くことである。あるいはその体験の中で稀有な出来事に遭遇することもいう。こうした冒険の体験者は多くの場合その体験報告を書いたりするが、荒唐無稽と一笑に付されることもあれば、またその内容に驚嘆されることもある。

こうした冒険に敢えて挑戦する人のことを冒険者と呼ぶ。冒険には危険や成果を上げられる確率の低さがつきもので、この意味でいつの時代にも未知なものへの挑戦、探検もすべて冒険と呼ばれてきた。新しい海路の開拓、山岳、アフリカの奥地、知られざる文明や文化の探索、自動車や航空機の速さへの挑戦など、すべて広い意味での冒険である。

語義は「険(けわし)きを冒(おか)す」。あぶないところにあえて(勝手に、ひそかに)入っていく意。英語のadventureは投機、山師の意を含む。語源はラテン語のad+venio(あることに向かって行く、あることに挑む)。

                              ―from wikipedia

「なんらかの目的」とは何かという話である。

人は何を目指して冒険に挑むのか?

金。神の声を聴くため。好奇心を満たすため(「好奇心」という言葉では言い現すことができないような激しい衝動もここでは好奇心の一種としておく)。功名心(昨今ではなぜか「承認欲求」とも言うようだ。思うに、功名心という言葉は、例えば信長の野望からSNSでバズりたいとかいう今どきの欲望まで広い範囲をモーラしている。承認欲求というのは功名心の中のささやかな部分というのが僕の理解だ)。それらが冒険者の中で複雑に混ざりあい、そいつを自分の能力と命と天秤に賭けた上でそれぞれを冒険に駆り立てているという気がする。混ざる塩梅はそれぞれで、それが人々の冒険そのものに人柄とは別の個性を与える。

例えば「ジョージ・マロリー

マロリーは「そこに山があるから」というセリフで有名。マロリーはその死と遺体を巡るエピソードが実にドラマチックだ。「僕にとって登頂とは生きて帰って来ることです。もし父さんが帰ってこなければ決してやりとげたとは言えないのです」という息子の言葉も印象的。

例えば「白瀬矗

この人は今ではあまり知られてないけど、相当ブッ飛んどる。

あのアムンゼンとスコットたちと互角に南極点に食い込んだ日本人。20世紀初頭の各国秘境初到達レースにおいて日本人はまるで相手にされてない。白瀬隊の南緯80度5分・西経156度37分というのは当時としてはかなり記録的成果だがまるで評価されなかった。南極点に行ってないからまあそれはしょうがない。

例えば「河口慧海

上の白瀬中尉と河口慧海は久生十蘭がそれぞれ『南極記』と『新西遊記』という小説で書いている。どちらも実話を元にしたきわどいフィクションだ。特に『新西遊記』の方は、ラマ教(チベット仏教)の描写が嘘みたいに邪教的で、例えそれが事実を多分に含んでいたとしても今では出版不可能。

そういえば、『西遊記』三蔵法師も紛れもない冒険者やね。中国からインドへありがたいお経を求めて遥か1万里の旅に出る。10回旅に出てその内9回は流砂河(タクラマカン砂漠)で沙悟浄に食い殺される。三蔵法師は信仰は厚いが弱い。10回目にして弟子の孫悟空の力を借りて沙悟浄を弟子にし、やっと流砂河突破に成功する。沙悟浄が下げてるネックレスの骸骨は、彼が食べた三蔵法師の前世の姿だってのは相当シャレてる。

例えば「チャールズ・リンドバーグ

この人の72年の生涯は複雑やね。とても複雑。彼の命懸けの冒険の結果命を落としたのはその息子だったというのは悲しい話だ。

例えば「ハリー・フーディーニ

フーディーニにはwikiの味気ない記述と写真を見ただけでも独特の哀愁と人間の心の奥底でグツグツ沸き立つ破滅的野生が感じられる。

例えば「ニック・ワレンダ

図らずもだんだん近づいてきた。

現代のSNS世代の冒険者たちは、神性に触れようとしたり、信長的な功名心に駆られたりする古典的冒険者よりもよりエンターテイナー的という点でフーディーニやワレンダに近い気がする。違うのはSNSの冒険者たちには技術がないこと。あるいは才能がないこと。それとも決定的に時間がないこと。

現代という制約と自分の肉体と精神という制約の中で彼らは与えられたデバイスを駆使して、ワールドクラスでなくても、前人未到でもなくても、オリジナルの、命を燃やす冒険の物語を紡ぐ。人はそれを観て感動したり勇気をもらったりする。それは記録ではない、観る人々の記憶に自らを残そうとする物語だ。

いや、

違うな、

昔も今も冒険者たちは変わってないのかもしれん。

自分の限界に挑もうとして、それを誰かに見届けてもらいたいと思う。

技術がどうとかそんなの関係ない。

昔の未熟で運のない冒険者たちはただ挑んで、そして人知れず死んでいった。

そんな死について他人はつべこべ言わなかった。

それだけの話かもしれん。

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Posted by aozame