勝手に翻訳アリソンベイカー

2020年9月22日

『8時半ごろまでにはーBetter be ready ’bout half past eight』

「性転換することにしたよ」とザックは云った。
 バイロンはラボノートから顔を上げた。「それが君のためになるんなら」
「このことについては君と話をしたことがなかったね」と云ってからザックは一歩下がって冷蔵室の扉に凭れた。「話さなきゃ。ビールでも飲みに行かないか?」
「このデータをまとめないといけないんだよ」とバイロンは云った。「一体何を話す必要がある?」
「僕の性別についてさ」ザックはいった。「間違った肉体に囚われてしまった僕の気持についてさ」
「ああ…、たぶん君は正しいんだと思うよ」とバイロンは云った。
「正しい?」ザックは云った。
「僕と話す必要なんかないだろ」バイロンは云った。「君の問題なんだから。違うかい?」
「僕らはずっと長いこと友達だったんだぜ」ザックは云った。
「今までずっとそんな気持だったのか?」バイロンは云った。
 ザックは頷いた。「これがその気持なんだと云うことはわからなかったよ」ザックは云った。「でも、セラピーに一年通った。間違いないよ」
「テリーのところに行ってたのか?」
 テリー・ウーを紹介したのはバイロンである。彼自身テリーのカウンセリングを受けたことがあったのだ。
 ザックはまた頷いた。「彼は素晴らしい。彼は最初会った時から僕が何なのかわかってた」
「君は何だったんだ?」
「女さ」ザックは云った。

 何か兆しがあったかな?バイロンは坐ってコンピューターのスクリーンを睨みながら訝った。それから彼は立ち上がってポケットに手を突っ込んで窓の外を眺めた。空があり、頂上に雪を頂いた丘が見えた。このフロアの窓はすべて顎より上にあるから、駐車場や外の地面は見えない。ただ遠景と雲と切取られた夜明だけが見える。
 彼は半時間ばかりホールをうろついた。周辺の研究室のざわめきが聞こえた。学生たちは機械の音に熱心に耳を傾け、技術者たちはコーヒーを手に歓談している。秘書たちはヒールの音をコツコツ響かせながら、すれ違いざまに彼に云う。「こんにちはグラス先生」。しばしば放心状態に陥ることで知られる彼はそれを無視しても構わない。研究に没頭しているのか、それともたぶん新しい詩作の最中にあるのだろう。その詩作ゆえに、彼は科学者仲間では変人として有名だった。彼は科学に関する詩的なコラムの編集をし、たくさんの詩のコンテストから審査員として呼ばれる。アンソロジーを編んだこともある。
 何を見損なったのか?
 考えるだけ無駄だ。ザックの人生はザックのものだ。彼の知ったことじゃない。「仕事に支障が及ばないようにね」なんて自分は彼に云うかもしれない。「手に負えない私生活は研究室に持込まないこと」
 しかし本当のところ仕事とプライベートが分けられるなどと彼は信じていなかった。「もし君の恋愛が上手くいかなくなったら、たぶん科学も上手くいかなくなるよ」実際そう云って、すすり泣く技術者を家に送ったことは一度や二度じゃない。取り乱した卒業生にもカウンセリングと称して同じことを云った。結果として彼の部下たちは、「ある程度」私生活を犠牲にして週末や夜の実験に参加することができた。それで良かった。これまでのところは。
「家に帰れよ」ザックの肩に手を置きながら彼にそう云う自分を想像してみる。「すべて終わってからまた戻ってくるといい」
 しかし、今回は駄目だろう。まずひとつには、この問題には終わりなどないこと。もうひとつは、ザックが戻ってきたときにはもうザックではないということ。彼はバイロンが一度も会ったことのない、女性になるのだ。

「からかわれただけじゃない?」とエミリーは云った。
 彼女はテーブルの上に坐って、ショウジョウバエのタンパク質ごとの転写段階にあるmRNAの合成に関する論文を編集しているふりをしていたが、バイロンがトビーの開いた口にスプーンを持っていくたびそれにあわせて彼女の口も空いてしまうのだった。
「違う」瓶からアップルソースを掬いながらバイロンは云った。「あいつはさ、口紅を塗ったりし始める前に僕にそのことを云っときたかったんだよ」
「もしザックがそんなことをするのが女だなんて考えてるんだとしたら、面倒なことになるわね」とエミリーは云った。「すね毛を剃らなきゃいけないし、それに胸にシリコンを埋める羽目になるかもよ」
「あいつのビキニラインの心配なんかしなくていいよ」バイロンは云った。
「まあ」エミリーは笑って云った。「もう聞きたくないわ」彼女はバイロンに洗濯物を渡し、バイロンはトビーの顎についたアップルソースを注意深く拭った。「自分が間違った性別にいるってどうやったらわかるのかしら?」
「女の勘?」とバイロンは云った。

「とても魅力的だよ」翌朝アイシャドウを塗って研究室に来たザックに彼は云った。
「バカにするのはやめてね、いい?」ザックは云った。
 バイロンは困惑した。「他意はないよ」彼は云った。「なんていうか、繊細にして全きっていうかさ」
 ザックは気を良くした様に見えた。「練習したんだ」と彼は云った。「ねぇ、知ってる?わたしの弟なんてもっと化粧してるんだよ。世の中狂ってると思わない?」
「そうだね」とバイロンは云った。ザックの弟なら会ったことがある。彼のメイクは主に黒だ。「ところで君はそいつを段階的にやっていくつもりなのかな?それともコールドターキー方式に一気に進めるのかな?つまりさ、ある朝君はパンティストッキングにスパイクヒールを履いて入って来たりするのかい?」
「ねぇ坊や」ザックは云った、「わたしはもうこの半年ずっとホルモン投与してるんだよ。全然なんの変化も感じない?」
 彼がお尻に手をやってゆっくりと一回転すると、ザックのラグビーシャツを押し上げる紛うことなき乳房がバイロンにも見えた。バイロンは軽い目眩に襲われながらも何とかこう云った。「君はブラジャーをしてる」
 ザックは鏡を見るために扉の後ろまで行った。彼は爪先立って、しばらく熱心に自分の胸を見つめてから白衣を取り上げて云った。「ああ、なんて良い気分なんだろ」
「そうかい」これがバイロンが云うことのできた背一杯だった。彼は考えていた。一体どうやったらザックのこの気分を損なうことなく、自分を「坊や」なんて呼んでくれるなと云えるだろうかと。
 その日彼はザックの胸を見ないよう一日中努めた。しかしそれは常にそこにある。彼の目の前に。ザックが椅子に身を屈めるたび、顕微鏡を覗きこむたび、両腕を首の後ろにやって椅子に背を凭せて天井を見上げて考えこむたびに。
「ちょっと出てくる」昼下がり、バイロンはサラに云った。
「大丈夫?」と椅子から見上げて彼女は云った。「少しやつれてるみたいだけど」
「大丈夫」彼は云った。「朝には戻るよ」
 でも駐車場へ出て車のシートに坐ると、どこにも行き場所が思いつかないことに気づいた。ハンドルに凭れて目の前のメルセデスを見つめる。ユタ州ナンバーは「IMAQT( I am a Cutie )」と読める。女だね…、もちろん。
 まあさ、俺の人生じゃないしね、と彼は思った。自分には何の変わりもない。

「あれほどオッパイに惑わされたのは十六の時以来だね」キッチンテーブルに坐って夕焼を見ながら彼はエミリーに云った。
「どのくらいの大きさなの?」とエミリーは云った。
「何だって!知らないよ」とバイロンは云った。
「わたしのより大きい?」彼女は云った。
 バイロンはエミリーのを見た。それはトビーを生んで少し大きくなっていた。「いや」と彼は云った。「でもあっちのはまだ始まったばかりだからね」
「それって彼は自分の気に入ったサイズになるまでホルモン投与を続けるってこと?」とエミリーは云った。「わたしもそれするべきね」
「ねぇ」バイロンは云った、「僕がわからないのはさ、何故それがこんなに気に懸かるのかってことなんだよ。彼は僕をからかってるのかな?」
「会議に出ると高くつく」彼女は云った。
「何だそれは?」バイロンは云った。
「もしザックが女だとしたら、あなた一緒の部屋に二人でいられる?」エミリーは云った。
「ああ…」バイロンは云った。「君はそんなことが問題になると思うのかい?」
「もうすでに彼のオッパイが気になってしょうがないんでしょう」エミリー入った、「まあせいぜい彼がフル装備になるのを待つことね」
 バイロンは手に頭を預けた。彼は外科手術のことなど考えてもみなかった。

「君はこいつを受け入れるべきだと思うよ」翌日ザックは云った。
「何だって?」バイロンは云った。
「我々はずっと友達だった。これからもそうで居たい」
「ザック」バイロンは云った。「どうやってこれまでと同じようにしたらいいかわからないんだよ」
「でも僕は僕さ。同じ人間だよ」ザックは云った。
 果たしてそうだろうか。バイロンには確信が持てなかった。「それで、どんな具合なの?」彼はどうにかそう云った。
 ザックは訊かれて嬉しそうに見えた。彼は机に腰掛けて腕を組んだ。「すごくいい」彼は言った。「僕の外科医が云うには、生理学的変化はスケジュール通りに進んでる。外科手術は来月から始まる予定になってる」
「始まると云うと?」バイロンは云った。
「段階的な手術なんだよ」とザックは云った。「おそらく半年、もしかしたらプラス数ヶ月かかる。大部分は美容整形手術だね」
「ザック」バイロンは云った。「たぶん、僕の知ったことじゃないんだろうけど、なんて云うか、その、君は…、」彼は何とかこの場に正しい言葉を探す。「それは、自分を傷つけてるような気になったりしないのかい?」
 ザックは首を振った。「それこそがこの問題の核心なんだよ」彼は云った。「それはまったくない。本当を云うとね、ここ何年かはさ、自分のペニスがまるで体の中で育ったエイリアンみたいに思えて仕方かなった。それは敵なんだよバイロン。今回の手術で僕は解放される」
 バイロンは足を組んだ。「理解できないな」彼は云った。
「わかるよ」ザックは云った。「誰にも理解できないだろうって僕のサポートグループも云ってる」
「サポートグループ?」
「手術を受けた女性たち」ザックは云った。「それと手術中の。毎週集まってるんだ」
「何人くらいいるんだ?」バイロンは云った。
「君が考えているよりたくさん」ザックはいった。
「それで」バイロンは云った。「君は…、なんて云うか、もう”彼女”って呼んだ方がいいのかな?」
 ザックはにっこりと微笑んだ。「僕はもうしばらく前から自分を”彼女”と呼んでる。でも今のところはグループの外で僕をそう呼ぶ人はまだいない」
「そうか」バイロンは云った。彼はザックを見て微笑もうとしたが両方一緒にはできなかった。彼はまず微笑んで、それからザックを見た。「努力するよ」彼は云った。「だけど僕にっとてそれは簡単なことじゃない。わかるよね」
「わかるよ。君の努力に感謝する」ザックは立ち上がった。「仕事に戻ろう」彼は云った。「そうだ」彼はドアノブに手を掛けて振り返った。「名前も変わるんだった。来月から僕は”ズー”と云う名前になる」
「ズー」バイロンは云った。
「”ライフ”、人生と云う意味だ」ザックは云った。「僕の”ライフ”はついに始まるんだ」

「”人生”と云う意味だ」バイロンは濡れたオムツを引き出しながら口を尖らせてトビーに云った。「人生だってよ」
 トビーが笑った。
「あいつは三十八年間いったい何をしてたんだよ。死んでたのか?」バイロンは云った。彼はトビーのお尻を乾かしてからパウダーを振りかけて柔らかい皺にそれを擦りこんだ。トビーの足を上げて新しいオムツをセットしようとした時、おしっこの奔流が高々と空中に弧を描いてバイロンの頰にヒットした。パウダーで白いトビーの太ももにおしっこの雫が跡を残した。
「なんてこった」バイロンは云った。「あと十秒待てなかったのか?」彼は洗濯物で赤ん坊を拭いた。そして、親指と人差し指で小さなペニスをつまんで揺すった。「お前は自分が何者だか知ってるよな?」彼はトビーの顔を覗きこみながら云った。「小さな男。疑問の余地なし」
 トビーが笑った。
 トビーをベビーベッドに乗せてからバイロンは洗面所に行ってTシャツを脱いだ。鏡の中の自分に目を留め動きを止めた。頭に引っかかったままのシャツが、彼の顔を縁取ったまま緑色のカツラみたいに垂れ下がっていた。
 彼は細部をぼかすために眼鏡を外し、顎のラインを見るのに鏡に顔を近づけた。彼の顎は力強いだろうか?”顕著な特徴”を持つ女性の中にはとても魅力的な人がいる。バイロンの母親は、エミリーはまるでフットボールプレイヤーのようにガッチリしているとよく云っていた。でもバイロンは彼女がセクシーだと常々思っていた。
 彼は眼鏡をかけて後ろに下がり、鏡に自分の肩だけが映るよう膝を曲げた。顔を覆う長い髪と、わずかのホルモンで体の線を変えたらなかなかいい女が出来上がりそうだ。
 彼は薬棚を開けてエミリーの口紅をとった。前に屈んでそれを口に塗り、唇を閉じて馴染ませると鏡の中に女の顔が現れた。バイロンの心臓が一瞬止まった。
 それは彼の母親の顔だった。

「ヘンテコな話だよ」彼は云った。「僕が母親に似ていたことなんてないんだよ。一度も」
「君は女装したことがないじゃないか」ビデオモニターを覗きながらザックは云った。「このデータはいったいどうしたって云うんだ?」
「もちろん女装なんてしたことがない」バイロンは云った。「その時だって女装したわけじゃない。シャツが頭に引っかかった自分の姿を鏡で見ただけだ」
 ザックは彼を見上げてニヤリとした。「そして彼女は現れた」と彼は云った。「自分の性別に関する事実に行き当たったとき人は途方に暮れるものだよ」
「ああ、何を云ってるんだ」バイロンは云った。「僕はただシャツを脱ごうとしただけだよ。何の事実にも行き当たってなんかない」
「答えは明白だね」キーボードを叩きながらザックは云った。
「くそっ!」バイロンは云った。「そのホルモン投与とやらはあばずれになって完成するのか?それともそれが始まりなのか?」
 ザックは彼を見つめた。「君がそんなことを云うなんて信じられないね」彼は云った。
 バイロンも自分がそんなことを云うとは信じられなかった。しかし彼は続けた。「最近の君にはすべてが性別の話になるんだ」バイロンは意地悪く云った。「僕は僕の母親の話をしようとしてるのに君はそれを僕の性別の話にしちまうんだ」
 ザックは立ち上がって机から離れた。「いいかい」腕を組んで彼は云った。「それはティレシアス・シンドロームと云うやつだよ。君は僕に嫉妬してるんだよ。なぜなら僕が両方の性別を理解できるからだ。女装をすることで、それはエミリーの下着をつけるでも、ただ鬘を付けてみるでもいいんだけど、そのことで君は僕と同化しようとしてるのさ」
 しばらくの間バイロンは動くことができなかった。「なんだって?」バイロンはなんとかそう云った。
「君はその事に対する本質的な議論に耐えられないのさ、違うかい?」ザックは云った。「我々の議論が個人的感性の問題に近づくとすぐに君は逃げようとする」
「感性」とバイロンは云った。
「感情の問題に関する限り君は典型的な男だね」とザックは云った。
「そして君は典型的な女だ」バイロンは云った。
 ザックは首を振った。「君は面倒に巻き込まれてるよ、坊や」
「僕が面倒に巻き込まれてるって?」バイロンは云った。「君こそがその面倒の元らしいんですけど」
「そこが僕たちの違いなんだよ」ザックは云った。「僕は自身の問題を解決しようと一歩を踏み出してる。君はそれがあることすら認めようとしてない」
「僕の問題は君だ」バイロンは云った。「君こそがクソったれの棘なんだ」
「そんなに長くは続かないさ」ザックはいった。
「一度刺さったら永遠に刺さり続けるんだよ」バイロンは叫んだ。

 ザックが部屋から出て行ってしまうとバイロンは机の前に坐ってザックがスクリーンに出したままのデータを見つめた。しかしそれは何の意味もなさなかった。結局彼は椅子を回して立ち上がり、後ろの本棚のリーガルパッドを手にとった。
 彼はいつも長めの黄色いリーガルパッドに詩を書いた。かつて一度、詩的な思索をコンピュータでメモしようと試みたが、それは彼の詩から離れて、その持って廻った云い回しは研究計画の新しいアイディアとなり、しまいには助成金申請書になって補助金まで降りた。その経験は彼を慄かせた。
彼はその坐ったところから見える空の断片を見上げた。そして十三語書き留めるまでの一時間余り、膝の上でリーガルパッドを握りしめていた。サラがオフィスのドアから顔を覗かせて「また明日」と云ったのを機にリーガルパッドを閉じてその日の仕事も切り上げた。
 家に帰る車の中で彼は死んだ母のことを考えた。メルバ・グラス。彼女はエミリーが嫌いだった。でもバイロンが結婚すると母はエミリーについて皮肉を云うのをやめた。代わりにこんなことを訊いてくるのだった。「ねぇ、エミリーって少しやかましくない?」
「”やかましい”ってどういうこと?」バイロンが唸ると、彼女は、別に。意味なんてないのよ。近頃の若い娘は昔とは違うから。などと云う。バイロンは彼女に向かって目を細めて見せたが、母親を電車の駅まで乗せて送り出した後そのやりとりを再び思い出す。エミリーは騒がしいというのが彼女の見解である。そして彼女は義理の母親の昔ながらの風習に対して特に寛容というわけでもなかった。
「何であなたのお母さんは自分で車を運転しないの?」そう彼女は云ったものだ。
「何故しなきゃならない?」とバイロンは云った。「そんな必要なかったじゃないか」
「今は必要でしょう?」エミリーは云った。
「何で必要なのさ」とバイロンは繰り返す。そしてそれから数日はエミリーが何か云うたびに、さも彼女が極めて聞き分けがなく騒がしい女であるかのように彼は振る舞うのだった。
 死んだ母が現れたなんて云ったらエミリーは一体なんて云うだろう?まして、彼自身の顔が死んだ母親と瓜二つだったなどと云ったら?
 彼女は暗闇でトビーの揺りかごを覗き込んでいる。「わたしはドン・アメチになってタクシーで迎えに来る」彼女は唄う。「八時半くらいまでには用意しといた方がいいよ」

「調子はどう?三人とも」とテリー・ウーは云った。
「三人というと?」とバイロンは云った。
「赤ちゃんができたんだろ?」テリーは云った。
「ああ、トビーね!ご機嫌だよ。エミリーも。そうそう、もちろん、みんなOK。全然問題ないよ」
 心配そうな表情がテリーの顔を過ぎった。「君は少しばかり抵抗し過ぎてやしないかね?」と彼は云って、指先を押し合わせがなら前屈みになった。
「抵抗?」バイロンは云った。「いや、違います。そんな理由で来たんじゃない」
「そうじゃないかもしれないし、そうかもしれない」テリーは云って背中を元の位置に戻した。
「そうじゃなくて、その…、わたしの同僚のことなんですが。ザックのことです」
「ああ」テリーは云った。
「頭から離れないんです」バイロンは弱々しく云った。
「同僚のことが頭から離れない?」
「彼の性別がです」バイロンは云った。
「彼の性別?」テリーは云った。
 バイロンが顔が熱くなるのを感じた。「どうも彼が女だって考え方に慣れることができないんです」
 テリーはまた頷いた。「男であるのも女であるのも謎だね」
「そうじゃなくてこう…、何故私は知らなかったのでしょうか?」
「君は奥さんが自分の妊娠に気づいた時それを知っていたかい?」
「何故そんな必要があるんですか?」バイロンは云った。
「そうだなぁ」テリーは云った。「君はそれが起こった時そこにいてその行為を行なっていた。にも関わらず君はそれが起きたことを知らなかった」
「テリー、それとこれとは別ですよ」
 テリーは肩をすくめた。「君は同僚を愛してしまったのかな?」
「違うに決まってるでしょう」彼は腹を立てた。「何てことを云いだすんですか?」
「私は考えうる可能性を君の中から選り分けてるのだ」テリーは云った。「つまり君が私に伝えようとしているのはこうだ。君は同僚のことが頭から離れない。そして彼女に恋しているわけではない。ということは私は君の想像力の飛躍についていけそうもないね」
「いいですか」バイロンは足元を見つめた。「二十年以上身近にいた誰かが一晩で女になってしまったんです。それは現実に対する私の理解を揺さぶってしまった。そのうち私は目の前のものが何も信用できなくなってしまうでしょう」
「そして君は科学者だ」テリーは考え深げに云った。「それは単なる外科手術とホルモンセラピーの問題とするわけにはいかないのかな?あるものからさらにより良く書かれた計画表に基づくものへの変更というわけには」
 バイロンは彼を見つめた。「そう云うことではないんですよ」と彼は云った。
 テリーは陽気な様子で両手を組んだ。「さらにこれには神秘的な要素さえあるね!見えざる強力な力!我々の理解を遥かに超えたもの!しかし、」彼は机に手を置いてバイロンの目を見つめた。「君の詩的ライセンスさえそれを受け入れようとはしない?」
「私の詩的ライセンス?」バイロンは云った。
「男と女はまったく違う?まったく無関係?交換不可能?そいつがこの西洋文明?」嫌悪感一杯にテリーは云った。「私の国では人々は毎日性転換してるよ」
 果たして自分はテリーの云っている意味を理解できてるだろうかとバイロンは訝った。
「仮に君の息子が二十年を経てこう云ったとする、『父さん、僕は今日から中国人だよ』。君は息子を捨てるかい?二十年間父親だったのに?そんなはずない!彼はそれでも依然として君の愛する息子のはずだよ」
「中国人?」バイロンは云った。
「憚りながら時間のようだ」テリーは云った。彼は立ち上がり手を差し出した。バイロンも立ち上がり、そしてその手を握った。「また会おう。今回は毎週予約が入れられるけど、どうかな?この議題を通院して続けてみるかい?」
「やめときます」バイロンは云った。「ただ少しご意見をお伺いしたかっただけなので」
「お役に立てたら嬉しい」テリーは云った。「お金要らない。無償、無償。プロの慎み。いつか私も科学実験が必要になるかもしれないんだし!」彼はクスクスと笑った。「それとも詩がね」

「シャワー・パーティー?」 とバイロンは云った。
「ちょっと面白そうじゃない?」とエミリーは云った。「贈物はガーターベルトとかイチジク膣洗浄とかさ」
「イカれてる」と彼は云った。
「そんなこと云わないで。彼の男友達も招待されてるんだよ」彼女はトビーのベビーバウンサーを組み立てるために使っていたドライバーを置いてからバイロンの膝にキスをした。「きっと楽しいわよ」
「それなら皆ではないちもんめでもやろうや」とバイロンは云った。「女子たちが一列に並んで『ザックが欲しい』とかなんとか喚くんだよ」
「親友がいなくなったみたいな言い方するのね」とエミリーは云った。
「まさに親友がいなくなろうとしてるんだよ。われわれはずっと友達だった。それが突然僕の思っていたのと反対側の人間だったってわけさ」
「ふ~ん」とエミリーは云ってソファーに背を持たせた。「男と女はまったく反対側にいるってわけね」
「やめてくれ」と彼は云った。「家の中でまで攻撃されるのは御免だよ」
「わたしはあなたを慰めてるつもりなんだけど」エミリーは云った。「あなたに同情してるのよ。だって親友が敵になろうとしてるんですもの」
「…。君は何か楽しんでないか?」バイロンは云った。「お祝いパーティーをする?女子の秘密の園に招き入れる?」
 エミリーは首を振った。「わたしたちはね、四十年間苦しんでいた人間の話をしてるのよ。わたしたちが彼にレースのパンティをプレゼントしたからってあなたは嫉妬するって云うの?あなたがそれが欲しいって云うならいつでもわたしのをお貸しするわよ」彼女は彼に微笑んだ。
「苦しみ?」バイロンは云った。「男の体の中で生きるのが悲惨な運命?そう、そいつは確かに死よりも忌まわしい」
「どうしてわたしを責めるの?」エミリーは云った。
「君を責めてるんじゃない」彼は云った。「ただ混乱してるだけだ」彼は彼女に近づいて彼女の胸に頭を預けた。「君もいなくなったらどうすればいい?」
「大丈夫」とエミリーは云った。「当分の間あなたはわたしの一部だから」
「そうだといいけど」バイロンは云って彼女に顔を埋めた。「本当に」彼の声は彼女の胸の谷間に捕らえられて遠くに聞こえた。

「むかしむかし」バイロンは優しく云った。腕に抱いたトビーを暗闇の中で揺らせている。「パパとザックおじさんがずっと若かった頃、」
 トビーはバイロンの口元を見つめながら手を伸ばしていた。
「その頃おじさんはまだおじさんでね」とバイロンは云った。彼はトビーの手を脇に挟んだ。「よく石切場まで泳ぎに出かけたんだよ。君はまだ泳いだことないよね。でもあれ、ママの子宮の中で上に行ったり下に行ったりするのに似てるよ」
 トビーは目を閉じた。
「研究所の仕事が終わると僕らは自転車でそこに行くんだ」バイロンは云った。「南部インディアナ州で夏に自転車に乗るって云うのはさ、もう泳いでるようなものでさ、湿気が酷いんだよ。汗を毛穴から押し出すことさえできないくらいなんだ。だから僕たちは午後も遅くなってから出かけるんだ。自転車を木陰に隠して、お気に入りのジャンプ台に向かう。それから思い切り助走をつけて崖っぷちから飛び降りる」
 トビーが何事か呟いた。
「そう、最後に残された冒険の地」バイロンは云った。「そして僕らはまさに同時に着水して底なし沼間際までそのまま沈んで行くんだ。そして浮かび上がる。一呼吸もしない。水は恐ろしく冷たい」
 彼は眉を顰めた。一体自分は子供になんて云う話をしてるんだ?
「こいつは詩だよ、坊や」彼は囁いた。彼は立ち上がって眠っている息子をベビーベッドにうつ伏せに寝かせた。明日の朝になればエミリーは新しいベビーベッドにトビーを寝かせるだろう。トビー・グラスも自分の世界を移動し始めると云うわけだ。

「彼女に何をあげるつもりなの?」とサラは云った。
「誰に?」計算機から顔を上げながらバイロンは云った。
「ズーよ」サラは云った。「わたしたち、ハリウッドのフレデリックの店から取り寄せシルクのブラジャーをあげるつもりなの。ところで彼女のブラジャーのサイズ知ってます?」
「サラ…、」バイロンは椅子を引いて腕を組んでから云った。「何だって僕がザックのブラジャーサイズを知ってるなんて思うんだ?」
「あ~ら」サラは云った。「気難しいですね~。お二人は友達でしょ?」まさか違うなんて云わないでしょうね、と云わんばかりの様子で彼女は彼を見下ろしていた。バイロンがそう思っただけだが。
「この話題はロッカールームには相応しくない」と彼は云った。
「あら」サラは云った。「じゃあ、何をあげるつもり?」
「まだ考えてない」とバイロンは云った。

「考えるべきね。そうでしょ?」
「お母さん!あなたは死んだはずなんですけど!」バイロンは云った。
「バイロン、ねぇ、落ち着いて」メルバ・グラスは云った。彼女は髪を触って辺りを見廻しながらバイロンの横の椅子に坐った。「この部屋にはあまり清掃員が来ないみたいね」
「お母さん、一体ここで何をしてるんですか?」机の上に投げ出した両足を降ろしてきちんと座り直してからバイロンは云った。「どうやってここへ来たんです?」
「タクシーでよ」とメルバ・グラスは云った。彼女はバッグを床に置いてから彼の記録ノートの上にあるランチの食べ屑を払いのけた。「ところで、お友達へのプレゼントのことだけど、何かこう個人的で親しみのこもったものがいいんじゃない?あなたたちもうずっと友達だったんだもの」
「お母さん、あなただってお父さん以外の男から何か親密なプレゼントなんて貰わないでしょう」
「バイロン…、バイロン、あなたもっと柔軟にならなきゃ。まるでお父さんみたいなこと云ってるわよ」
「そうですか?」バイロンはむしろ嬉しかった。「お母さんとお父さんは上では一緒なんですか?」
「上というとどこかしら?」メルバ・グラスは云った。
「まあ、天国とか」バイロンは行った。
「天国!何を云い出すかと思えば」メルバ・グラスは云って笑った。「あなたのお父さんの考える天国とわたしのとじゃ全然違うんだから」
「ああ」バイロンは云った。母は別にふざけているわけではないようだったのでこう云った。「エミリーと僕に子供ができたことは聞きましたか?」彼はトビーの写真が母親に見えるように手にとった。
 メルバ・グラスは眉をひそめてその写真をしばらく見てからバッグに手を伸ばして老眼鏡を取り出した。そして写真を見つめた。「エミリーのお父さんに似てるわね」彼女は云った。「ところで、ズーのことだけど」
「ズーが何だって云うんですか?」バイロンは云った。
「シルクのストッキングなんてどう?」メルバ・グラスは云った。彼女は膝の上で両手を合わせて脚を組んだ。「わたしがデュポンで働いてた頃ね、会社のストッキングをいくらでも貰えたんだけど全部ナイロンだったのよ」
「お母さん」バイロンは云った。「僕は別に彼に何もあげたくない」
 メルバ・グラスは眼鏡を外してバイロンのそばへ来て彼を見つめた。「今まで生きてきた中で一番の驚きだわ」と彼女は首を振りながら云った。「どうやったらわたしの息子がこんな保守的な男に育つのかしら?」
「僕が?」バイロンは云った。
「バイロン、科学があなたの友達にしたことは素晴らしいことなのよ」とメルバ・グラスは云って、期待に満ちた目を彼に向けた。「この新しき世界!あなたもこの変化を受け入れなきゃ」
 彼女は眼鏡をバッグにしまって立ち上がった。「これだけは云わせてバイロン。もし、ズーの人生の今の瞬間をサポートしなかったら、あなたは一生後悔する」彼女は彼に一歩踏み寄り、人差し指を彼に向けて振った。「一生よ、バイロン」彼女は机の上のリーガルパッドを見つけて手に取った。「新しい詩?」彼女は云った。彼女は腕を伸ばしてそれを見てから頭を振った。「わたしは完成させることができなかった」彼女は寂しげに云った。「わたしもむかし詩を書いたのよ」
「お母さんが?」バイロンは云った。
「デラカンプスの店で探すといいわ」とメルバ・グラスは云った。「あそこにはいつだって素敵な物があるから」

「僕の母が書いた詩はどこにいっちまったんだろう」とバイロンは云った。
 エミリーは新聞から目を上げて、赤鉛筆の端を噛みながら思慮深く彼を見つめた。「それ程良い詩ではなかったわ」と彼女は云った。
「なぜわかる?」と彼は云った。
 彼女は眉をひそめた。「バイロン、わたし時々あなたは繭の中で生きてるんじゃないかって思うことがあるのよ」
「君それを読んだのか?」バイロンは驚愕したように云った。
「もちろんよ」彼女は云った。「そうね、愛とか花とか月についてのちょっとした詩」
「なぜ彼女は僕にそれを見せなかったんだろう?」バイロンは云った。テレビ画面では黒人の女性が、虐待が見られる家庭におけるティーンエイジャーの避妊戦略について語っていた。「エミリー、それは今どこにあるんだろう?」
「彼女が捨てちゃったわ」エミリーは云った。「とっておくには恥ずかしいと思ったみたいね」
「なぜ彼女はそいつを君に話したんだろう?」バイロンは云った。
「わたしたちは何か話さなきゃならなかったのよ」とエミリーは云った。

「たぶん君のお母さんは正しい」とバイロンは云った。「たぶん僕には世の中で何が起こっているのかまるでわかってない」彼はバックミラーの中のトビーを見つめた。トビーは車のシートで軽いイビキを立てて眠っていてなんの反応もなかった。
 バイロンは当初こう思っていた。科学者になるということは世界に対する理解を深めてくれる。それどころか世界を理解することそのものであると。しかし現実は、彼の仕事が年を追って専門性を増すのに従って彼の知識も専門性を増して狭くなっていった。脳が本質とは無関係のデータバンクによって疎外され、彼の感覚器官は日一日と外部刺激から遠ざかっていった。研究室でゼリーやチューブの中で起こる些細な変化を記録することにかまけ過ぎた。その宇宙では変化は自立的で彼は観ている必要さえなかった。世界は新しくなった。それは皆にとっては明白なことで、いくら詩で自分の中に留まろうとしたところで、然るべき現実はそこにある。
 確かに、彼は世界が野蛮で風変わりな場所に変わって行くしかないのならむしろ繭の中で暮らしていたいと思った。サイレンがいななき、低音を唸らせて車が通り過すぎる。死んだ女がミラーに現れ、男が女になる。しかしバイロンとトビー・グラスは繭の中にあって無事快適に町を横断したのだった。
 自分は何を知っていたのか?バイロンは思った。何一つ分かってなかったんじゃないのか?

「何かお探しですか?」とベージュ色の髪をした香水くさい若い女が云った。彼女は血の色のリップをして、眉は鮮やかな赤紫色をしていた。
「プレゼントを探してるんだけど」とバイロンは云った。
「赤ちゃんのお母さんにでしょうか?」と女はいった。
「誰にだって?」バイロンは云った。
「赤ちゃんのお母さん」と彼女は云って長く伸ばした赤い爪でバイロンの胸で平和に寝息を立てているトビー・グラスのスナグリをつついた。
「ああ」バイロンは云った。「違うんだ。お祝いパーティーのプレゼントなんだよ」
「あら素敵!」と女は云った。「どんなパーティーなの?」
「そうだな…、カミングアウトパーティーかな」
「その手のはあまりないかなぁ」と彼女は云って店内を見渡した。「あなたは彼女とは親しいの?」
「昔はね」バイロンは云った。「でも彼女は変わった」
「”plus ça change, plus c’est la même chose” 変われば変わるほど、変わらないのだ」と女は云った。「何か思い出になるような物は?革製品なんかどう?」
「どうかな…」バイロンは神経質にトビーの暖かい背中のカーブを撫でながら云った。「ストッキングなんかはどうかな?」
 女は眉をひそめた。「パンティストッキングのことかしら?」
「いや、違うんだ」と彼は云った。
「わかってるわ」女はバイロンの下唇を赤い爪で弾いた。「こっちへ来て」彼女は店の裏へ彼を導いて奥の引き出しを開けた。「当店お得意様用。” メリー・ウィドウ “ 陽気な未亡人よ」彼女はリボンとジッパーで覆われたレースの黒い下着を持ち出した。
「ワォ」バイロンは云った。「こんなのまだあるんだね」
「これは最高」販売員は云った。彼女はそれを自分の胸に当てた。「あなたのお友達がこれをしてるとこを想像してみて!」
「できないよ」バイロンは云った。
「彼女のブラのサイズはご存知?」と女は訊いた。
「わからないんだ。まだ成長してるらしくてね」バイロンは云った。
「あら」女は云った。「それじゃあ香水なんてどうかな」バイロンはもったいぶった手招きをする彼女について鍵のかかったガラスキャビネットのある店内に戻った。「この中のは世界中の本場から集められた香水です。パリ、香港、アスペン。これはとても人気があるわーラ・ディフェランス 」
「それがいい」バイロンは云った。「そいつをもらうよ」
「とてもいいお買い物だと思うわ!」女は彼の頬をパタパタ叩いてから胸の谷間から香水の入ったキャビネットを開ける金の鍵を取り出した。
「ギニーが会計してる間わたしたちのメイクアップを試してみない?」と別の販売員が云った。
「遠慮しとくよ」とバイロンは云った。
 その女は彼に向かって口を尖らせた。「するべきよ」と彼女は云った。「たくさんの男性がメイクアップしてるわ。女の子はそれが好きなの」彼女はカウンターの前の椅子を叩いた「坐って」
 バイロンは坐った。彼女が彼のメガネを外した。「とぉっても素敵になるわよ」と彼女は云った。彼女は彼の前に屈み混んだ。彼女の唇が開き、カラフルな指でソフトに彼の瞼をマッサージした。「キューズミー・ホワイル・アイ・キス・ザ・スカイ」と彼女は静かに歌いもう一つの瞼に移った。そして黒く長い道具で彼の瞼を描き始めた。「これはクリーム・ソー・ソフト」と彼女は彼に教えた「ノリがすごくいいの」彼女は二つの瞼を描き終わり、小さな櫛でまつ毛を整えると一歩退いた。
「ほ~ら」と彼女は云った。「もう殺し屋って感じ」
 トビーがバイロンのシャツを掴んだ。メイクアップ女はすぐに反応して云った。「おチビちゃんはお腹が空いたのね」彼女は目をバイロンに移した。「この子を静かにさせてみせましょう」
「できるの?」バイロンは云った。
「赤ちゃんはこれが好きなのよ」と彼女は云った。彼女はトビーをスナグリから出してバイロンの膝の上に坐らせた。トビーが彼女の鼻を眺めている間にクリーム・ソー・ソフトで顔を描き始めた。「できた!」彼女はトビーを抱き上げメイクの出来をバイロンに見せた。
 トビーはニコニコ笑ってて足をバタつかせた。彼は彼は黒い口ひげと顎ひげを蓄えていた。
「まあ素敵」レジから戻ったギニーは云った。「会計はキャッシュ、それともカード?」
 バイロンは差し出された請求書を見た「カードで」と彼は云った。「ほんと云うとこの店はずいぶん前に閉めたのかと思ってたよ」
「そう云う人はたくさんいるわ」とギニーはいった。

「赤ちゃんになんてことしてくれたの?」バイロンが戻るとエミリーが言った。
「彼はこれが好きなのさ」とバイロンは云った。「これは二十年後の彼の姿だよ」
「ビートニクになるってこと?」とエミリーは云ってトビーをバイロンの腕から奪った。「そんなに慌てることはないとは思わないの?」
 バイロンは溜息をついた。「彼らはすぐに大きくなるんだよ」とバイロンは云った。彼はトビーの頭にキスをしてからエミリーにキスをした。「新しい僕はどんなだい?」
 エミリーは彼を見て云った。「髪を切ったの?」
「エミリー、僕はメイクをしてるんだよ」バイロンは云った。
「あら、そう云えばそうね」と彼女は云った。彼女はトビーを抱き上げてお尻の匂いを嗅いだ。「お父さんはあなたのオムツを替えなかったのね」と彼女は云って、トビーを抱えたまま部屋を出て行った。
 バイロンは洗面所へ入って自分を見つめた。彼の瞼は紫色に明るく輝いていた。彼はエミリーのバーンレッドのリップを手に取って、注意深く自分の唇に引いて見た。そしてメガネを外した。
「あなたそれが誰だか知ってる?」エミリーが鏡の中で彼の横に現れて云った。「お母さんよ。完全に。カーリーヘアにしたらもうそのもの」
 彼女は鏡の中の自分の上唇に手を伸ばした。「この口ひげ剃った方がいいと思う?」
「いや、僕はそれがセクシーだと思う」とバイロンは云った。彼は脇から彼女の胸に手を伸ばした。「ベッドへ行こう」
「やめとく」とエミリーは云った。彼女はクリーム・ソー・ソフトでアイラインを描き始めた。「あなたのお母さんと寝る趣味はないわ」
「君は母が好きじゃなかったね」とバイロンは云った。
「そんなにはね」とエミリーは云った。
「それじゃ、ちょっと研究室に行ってくるよ」とバイロン入った。彼女の頰にキスをすると大きな赤い唇の跡が残った。
「信号無視しちゃダメだよ」とエミリーは云った。

 バイロンは週末の研究室が好きだった。学生や研究者たちが薬品を貸し借りしたりするために互いの研究室を行ったり来たりして、全世界が様々な組織の構造や化学反応の分析にたずさわっているかのように感じられる平日も好きだ。でも週末は違う。空っぽのオフィス。静かなホール。変わり者の学生が時折トイレを行き来する足音だけがする週末は自分だけの寛いだ気分になれる。静けさはバイロンの思考を研ぎ澄ませる。そして、外の実社会で安らぐことを諦めて顕微鏡に向かい、世界の真実の陳列台に何かを加えることを望む他の科学者たちに親近感を抱かせた。週末の研究と詩作は、慌ただしい日常の中では到達できないようなどこか奥深く、直観と希望の泉から湧き出てくる。週末こそ彼が見つけ出すべき世界の姿を詩と科学で垣間見せてくれる時だった。それは生きる意味を教えてくれるのだ。
「生きる意味!」と彼は叫び、それをノートに書きつけた。それからそれをキーボードでタイプすると、琥珀色の字となってスクリーンに現れた。彼は微笑んで背もたれに身を預け、両足を机に載せた。詩か実験か?どっちも同じさ!
 彼は何か重大な発見へと繋がるとば口に立っているような気がした。

「なんでそんなことするんだ?」
 バイロンは驚いて目を見開いた。ズーが扉に持たれて立っていた。それはもう完全に、誰が何と云おうとズーだった。もはや誰も彼女を男と思う者はいないだろう。何でだ?彼は彼女を見た。髪型、服装、顎、腕の組み方さえもすべてが自然だった。一体何が起こった?
 我慢ならないという風にズーは首を降った。「そのメイクは何だ」彼女は云った。「君は違う者になろうとしてる」
 バイロンは自分がメイクアップしていることをすっかり忘れていたがこう云った。「違う者かどうかなんてなぜ君に分かる?」
「なぜなら君は保守的な人間だからだ」ズーは云った。
「違う」と彼は云った。「僕は本当はワイルドなんだ。怖いものが多過ぎてそれが発揮できないだけだ」
「君が?」とズーは云った。
 彼は頷いた。「でも君はすっかりワイルドになったね」
 ズーは首を振った。「僕の根元の部分はすごく保守的なんだよ。それが常に僕の問題だった」彼女は外の白い丘を見つめて云った。「一つだけ僕が後悔していることが何だか分かるかい?もう自分の子供を持つことができないってことさ」
「養子を取ればいいじゃないか」
 彼女は首を振った。「彼らは僕の遺伝子を継いでない」
「誰の子供かなんてどうだっていいじゃないか」とバイロンは云った。
 ズーは溜息をついた。「なあ、正直に答えてくれ。アイラインの引き方はエミリーに習ったのか?」
 バイロンは微笑んだ。「いや、実はむしろ僕が彼女に教えたのさ」
 ズーは目を細めてしばらく彼を見つめてからスツールに腰掛けた。「僕はロー・スクールに行こうと思ってるんだ」
「本気か?」と彼は云った。「研究室を出るってことか?」
「そう。特許が役に立つ」
「僕を置いて行くんだね」
 ズーは手を伸ばしてタブレットを掴んだ。「詩、詩、詩」と彼女は云った。「いつだって君は詩を作ってる。仕事そっちのけで」
「詩が簡単に作れると思ってるのか?」とバイロンは云った。
「そんなこと思ってないよ」彼女は云った。
 彼らはしばらくの間無言で坐っていた。
「君は僕のシャワーには来るのかい?」ズーはいった。
「シャワーってのはサプライズパーティーのはずじゃないのか?」バイロンは云った。
「サプライズは嫌いなんだ」とズーは肩をすくめて云った。「もし僕のためにシャワーを企画してくれるなら男性も呼んでくれないとダメだってサラに云ったんだ」
「プレゼントは買ったんだよ」バイロンは急に恥ずかしさを覚えたことに驚いた。「君に喜んでもらえるかどうかわからないけど」
「お見舞いには来てくれるかい?」
 バイロンは頷いた。
「ところでそのメイクだけど、まあまあ似合ってる」とズーは微笑んで云った。「君の特徴を際立たせてる。強く見える」
「中身は一緒さ」とバイロンは云った。
「ロー・スクールのことは本気なんだ」とズーは云った。「人生を変えなきゃいけない」
「性別を変えただけじゃダメなのかい?」
「ダメね。わたしは前からず~とこうだったんだから」
「なるほど」とバイロンは云った。そして急に激しい悲しみと疲労に襲われた。彼はデスクに脚を載せた。二人は静かに坐って窓の外に見える世界の一部を眺めた。
 しばらくしてから彼はズーにトビーとデラカンプスの店に行った話をした。「それでさ、ショッピング・モールのベンチでトビーに哺乳瓶をやってふと見上げたらさ、老婆が二人で彼を見てるわけ。そしてひとりがこう云った。『ちょっと何?信じられない』もうひとりは息を飲んで腕を組んで僕を指差した。それから恐ろしい物を見てしまったって風に後ずさって行ったんだ」
 ズーは笑った。
「今度は男と小さな女の子が通りかかった。女の子がこう云った。『パパ、あの人たちはホームレスかしら?』父親はこう云った。『違うよお嬢さん。あの男の人は病気なんだよ』」
「まあ」ズーは息を飲んで胸に手をやった。
 バイロンは頰の涙を拭った。落ちたマスカラが手に付いていた。「僕には分からない」と彼は云った。「分からない。なぜ彼らはあんなことを云うんだろう。僕は自分がメイクしてることなんてすっかり忘れてたよ。それにトビーは僕にはまったく普通に見えた」
「やめて」ズーは腹を抱えて笑っていた。
「そしてその男は僕のところにやって来てさ、腰に手をやって云ったんだよ。『恥ずかしいと思いなさい』」
「死ぬ~!息できない」ズーは喉の奥から云った。彼女はスツールから飛び上がってドアから出て行った。「おしっこ漏れちゃう」
「恥ずかしいと思いなさい」とバイロンは後ろから叫んだ。
 彼は誰もいないホールを走り降りる彼女のスニーカーの音を聞いていた。それから聞き慣れた音。男子トイレの扉が開いて蝶番が軋む音がした。

「良かった。君が来られて良かった」そう云ってテリー・ウーは大げさにバイロンの手を握った。
「僕が来ないと思ったのかい?」とバイロンは云った。
「君は忙しい人だからね」とテリーはいった。「細胞たちが待ってくれないことは実に多い」彼は微笑んで前のめりになりながら云った。「彼女に電気マッサージ器をプレゼントするんだ。初めてハイヒールを履くとふくらはぎの筋肉がひどく痛むんだよね」
「その通り」エミリーは云った。彼女はテリー・ウーに微笑みかけ、バイロンを奪い取った。「気持ち悪い奴」彼女は云った。
「君は外国人差別をしちゃいないか?」バイロンは云った。「この国ではそれは許されないよ」
 彼らは人ごみを押し分けて進んだ。バイロンはスナグリの中で潰されないようにトビーの頭を手で覆って歩いた。
「見つけた!」サラが現れた。「この人数すごくない?」そう云って人だかりを手で仰いだ。
 エミリーが彼女をハグして云った。「例のやつ手に入った?」
 サラは頷いた。「ブラジャーにあんなに時間をかけたのは人生で初めて」
「サイズはどうやって調べたの?」とバイロンは尋ねた。
「彼女に直接訊いた」とサラは云った。彼女はふたりをズーのいるところに連れて行った。ズーの横のテーブルはプレゼントが山積みになっていた。「さあ、乾杯しましょう!」
「君たちが来てくれて本当に嬉しい」ズーは云った。エミリーの頰にキスしてからトビーの尻をギラギラ赤く輝く人差し指でつついた。「ビートニク・ベイビーのご機嫌はいかが?」
「ズー、あなたとても素敵…」エミリーは云った。「本当に。あなたとても、なんていうか…、あなたみたい」
「今度顔の毛を電気分解脱毛する予定なの」とズーは云った。
「そのままで十分綺麗だよ」とバイロンは云った。ズーはいつ彼の頬っぺたにキスするつもりなんだろうかと不思議に思った。「君に香水を買ったんだけどね、やっぱり辞めてそれはエミリーにあげることにしたんだ」
「それは良かった」とズーはいった。「『ラ・ディフェランス』にだけはアレルギーがあったんだよね」
「いつか近いうちに」とバイロンは云った、「君の為に詩を書くよ」
「わたしには書いてくれたことないのよ」エミリーは目の前のテーブルを仰ぎながら云った。「見てこの戦利品」
 彼らはプレゼントの山を見つめた。「開けて見るのが待ち遠しいわ」とズーは云った。「シャワーはいつでも大歓迎」
「いつでも欲しい物が手に入るなんて素晴らしいじゃないか」バイロンは彼女と腕を組んで云った。彼女が組んだ手に力を込めると彼の上腕三頭筋に彼女のバストが触れた。彼女の筋肉は一瞬だけ男の力で彼に応えた。
 彼は不意に幸福感に満たされた。彼の左では、エミリーが鳥レバーのベーコン巻に手を伸ばしていた。右では、世界で一番古い友達が、彼女の前途を讃えようと集まった人々と握手を交わすために彼の腕をほどいた。そして彼の肩には、まるで新しく発明された歓喜のオルガンのようなトビー・グラス入りのバッグがぶら下がっていた。
 トビー・グラス、これから何にだってなれるトビー・グラス!
 ミュージシャンたちが楽器のチューニングを始めた。互いに向き合い、音を聴きながら深く頷く。チェロ奏者が彼女の椅子をバイオリン奏者に少し寄せる。バイオリン奏者が彼女の長い赤毛をかき上げるために楽器を一旦首から離し、また顎の下にきっちりとそれを納めた。突然、機械仕掛けのように演奏者は彼女たちの弓を宙に掲げ、しばらくそのまま静止したかと思うと、あらかじめ打ち合わされた見えないサインと共にそれぞれの楽器の弦に弓を下ろして演奏を始めた。

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Posted by aozame