仏教が流行ってる?

去年の今頃ジュンク堂をブラブラしていて「ああ、今仏教が流行ってるのかな」と思った。

ちょうど青土社の『現代思想』が仏教の特集をしていたから買って帰った。そのまま読まずに忘れていたのをこの間やっと読んだ。その本によると、確かに今仏教にはブームのようなものが到来しているらしい。それはもう2011年頃から始まっているんだそうだ。震災の頃から始まってるんだそうだ。こんなあからさまに繰返し自然災害に見舞われるご時世だもの、そりゃあ御仏のことも思い出すよ。しかし、10年近く前から始まってるわりには、俺の周りでブームを感じられる現象といえば大型書店の棚から聴こえてくるブッダの微かな声と youtube で見つけた般若心経をテクノとかヒップホップとかストリングスに載せてパフォームする坊さん。スリランカのスマナサーラ長老の人生相談。昼のワイドショーのコメンテーターにもなんとか言うお坊さんが出てた。だけどそのくらいだ。大したことない。仏教界から世界に轟く新しい偉大な思想家が出てきてもいいのに。せめて、マツコデラックスみたいな坊さんが出てきて迷える現代人の悩みに応えてくれたっていいのに。

何かこの混沌を生き抜くためのヒント、漠然とした不安に応えるような言葉があるのかなとか思いながら『現代思想』を読んでみたがそんなものはなかった。というかそんな主旨じゃないんだろう。『現代思想』の執筆者や編集者たちはここで仏教にエールを送っているのだと思った。「もっとやろうよ仏教」「今がその時だよ仏教」「お前ならできるはずだよ仏教」。実力がありながらなかなか勝てない贔屓の野球チームを応援するような感じだ。ひとつ、「いまなぜ近代仏教なのか」という対談の中でちらっと言及されていた碧海寿広先生の『仏像と日本人』(中公新書)という本が気になった。

日本の仏像はなぜあんなに美しいのか?

中国にもインドにも美しい仏像はある。神仏を美しく造形することが不思議だなんて我ながらおかしな話だが、それでも日本の国宝級の仏像の美しさはどこか不可解な気がする。信仰の対象を表現するのにあんな複雑で微妙な技巧が必要なのか?そんな手の混んだ美しさって誰に向かって何を語りたいのか?布教したいなら、威力を見せつけたいならただデカいとか、ただ豪華だとかいう方がよほど分かりやすいし簡単じゃないか。そんな問い自体がナンセンスだろうか。

どうも日本人にとって仏像は信仰の対象であるだけではなく最初から教養や美的鑑賞の対象でもあったらしい。近代以前はそのふたつは矛盾することなく平和に共存していた。仏像の圧倒的な美しさは、ちゃんと宗教性を保ったまま、見る者は「すげーなぁ~」「有り難てぇなぁ~」と言っていられた。真面目な日本の仏師たちは、仏像が美しいということの意味など疑うことなく、力の限り職責をまっとうした。近代になって西洋から「美術」という概念が輸入されるとふたつは微妙に齟齬をきたすようになってくる。美しいものに神性を感じることになんの不思議もない。しかし、それだけで神性なはずのもの、例えば仏像が、美しくないとそれに神性を感じないというのなら、もうその「美しさ」は信仰とはあんまり関係がないことになる。「美術」はそうやって信仰と美を引き裂く。

碧海先生の『仏像と日本人』は「仏像が信仰の対象であると同時に美術品と化した、(廃仏毀釈に始まる)近代以降の」仏教の(複雑な)歴史と、それでもそこに信仰を見出してきた「美術と宗教のあいだで揺れ動く」日本人の心の歴史を辿ろうとする本である。面白い本です。

斯くして、じゃあなぜ、「日本人にとって仏像は信仰の対象であるだけではなく最初から教養や美的鑑賞の対象でもあった」のか?という疑問が残った。でももうそれは置いとく。

つづく?

 

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Posted by aozame