タイの仏像

日本の仏像はなぜあんなに美しいのか?
あんなに美しい必要あるかぁ?
タイの寺で冗談のように金ピカの仏様を眺めていてそんなことを初めて思ったんだった。
タイの寺院は、見るからに怪しい得体のしれない外国人が何時間坐ってボ~ッとしていても誰も何も云わないし誰も気にしない。線香の香りが漂い、人々は入れ替わりたち替わる。南の鳥が変な声で鳴く。タイの寺は嘘のように居心地が良い。

町を歩いているだけで人々が坊さんを大切にしていることがわかる。輪廻を信じてることがわかる。ブッダがとても身近に漂ってる。そうじゃなきゃ仏像はこんな顔をしない。

タイの仏像は別に美しくない。ただいつもすぐそばに居て、「有難い」。信仰があるっつうのはこいうことか、とも思う。しかし信仰があるからって社会がうまく行くわけじゃあないのも事実だ。格差はひどいし、政治は腐敗してる。莫大な金が集まるから寺院だって腐敗する。「マイペンライ」と云って人は笑ってたくましく生きているが、それは無気力や退廃と紙一重にも見える。仏に近づくための鍛錬やら禁欲やらは出家者に任せて自分たちは俗世の欲と汚濁に心置き無くまみれる。寺院はたぶん社会的弱者を吸収する役割も担当している。その代わりに寺院に与えうる限りの金と尊敬を払いそれを支える。それがタイスタイル、タイ的社会福祉策と云ったら怒られるだろうか。何はともあれ飢えた人々がいないのはタイが豊かな国である証拠だろう。バンコクですらホームレスはあまり見かけない。

チェンマイの一膳飯屋で会った日本人のオジさんは年の頃なら六十そこそこで、その飯屋の近所でバーを経営しているということだった。退職金を手にもう日本には帰らないつもりでこの国にやって来て5年になる。「ご家族は?」なんて質問はしないのがこの場合礼儀というやつだろう。むこうから話す分にはいくらでも聞くけど。ともかくなんてったって毎日呑んだくれてるんだそうだ。タイに流れて来た当初からずぅ〜と呑んでて、ある時金が随分減ってることに気づいた。どうしたもんかと思案していたらタイ人の知り合いが、今幾ら持ってるんだ?じゃあ俺のバーを売ってやるからそいつの上がりを飲み代に当てるといい、なんて提案をしてきた。その話に乗って現在に至るわけだが、側から聞いてるといかにも胡散臭い。大丈夫だったんですか?と訊くと、そうやって日本人に不動産売買を持ちかける輩はたくさんいて、損することもあれば得することもある、自分の場合は家賃と飲み代は十分でてるからトントンかな、と云っておられた。意外とやり手なのかもしれない。店の管理はその話を持ってきた男が紹介してくれた女の子が一人でしていて、オジさんが顔を出すのは2週間に1度程度。毎月売り上げから何割かが振込まれることになっている。細かい内訳はあんまり気にしてないとのことだった。タイのバーがすべてそうではなかろうが、オジさんのバーは話を聞く限り所謂売春婦を斡旋するような類の店だった。客は店にたゆたっている女の子に飲み物を奢って歓談し、話がまとまれば二人で店を出て街に消える。チェンマイは北の町だから、オジさんの店で働いている女の子たちの大半は山を降りた山岳少数民族なんだそうだ。読み書きができない娘もたくさんいる、とオジさんは云ってた。
気候の良いチェンマイはタイ好きの日本人にはとりわけ人気のある町だ。オジさんに限らず、セカンドライフをここでと云ってチェンマイにやって来る人は多い。もちろん色々な人がいる。オジさんが云うには、チェンマイでは昨今日本人の孤独死が少しずつ問題になっているらしい。それはだいたい男だ。それなりの金(タイでは大金)を持って独り身の五、六十男がタイにやって来る。金にモノを云わせて現地の若い女と何も考えることなく所帯を持つ。立派な家を二人のために建てる。すると女は自分の一族郎等をその家に呼び寄せる。ほどなく、女の一族は娘の親ほども年の離れた異国のスケベ初老男を疎んじるようになり、家から追い出す。孤独死。
酔っ払いのオジさんはこの話を悲劇のように話していたが、俺はそれを捻りの効いた因果応報譚の一種として聞いた。
日本という国で何をしてかき集めた金かは知らない。スケベ男が日本で作り、タイでばら撒いた金は異国の貧しく普通に心の狭い人の懐に入り込み、信仰厚き国の普通の貧しい彼らは転がり込んだその富の幾分かを寺院に捧げるのだろう。そしてそれは富の再分配よろしく仏教を通してタイ人の心と体にあまねくささやかに降り注ぐ。それなら良いじゃないかと思う。どうせ孤独死するのなら、東京砂漠よりもチェンマイでする方がよほど心安らかに死ねそうな気がするのは俺だけかな。

タイのお経も柔らかくて良かです。

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Posted by aozame