ポンチ絵

2022年6月22日

 まあまあ有名な少女漫画家のヒモのようなことをしていた知合いがいた。体育会系で野球が上手い男だった。昔の軍人なんかが出てくる映画が好きな、マッチョでどちらかと言うと右翼的な思想の持ち主だった。その男が年上の漫画家に、たいして興味もなさそうなハワイとかジャマイカとかメキシコやなんかに頻繁に連れ出される姿を、羨ましいような気の毒なような他人事で眺めていた。折角なのでその少女漫画家とはどんな漫画を描くどんな人なのか当時作品読んだり自伝読んだりしたことがある。漫画はそんなに面白いと思わなかったが自伝は面白かった。姉御肌のサバけた女性と言った感じだった。「たまたま世間の好みと自分の好みが合っただけで、自分に才能があるとか思ったことないし、そんなことどうだっていい」ってなことを言ってました。幼い頃に両親は離婚して父親はそばに居らず母親は厳しかった。家で絵ばかり描いている少女時分の彼女は母親に「そんなポンチ絵なんて描いてないで勉強しなさい」と度々言われたそうで、プロの漫画家になってからも彼女の仕事をまるで認めていないと言うことだった。「ポンチ絵なんて」と言う言草はわたしも昔コロコロコミックなんかを読んでいるとよく祖母に言われたので、この母親との件は妙に記憶に残っている。「ポンチ絵」ってなんだか分かりますか?
 こんな絵のことです。漫画の原点と言われてます。

 今年の正月に、永らく行方が知れなかったその男が死んだと言う話を聞いて久しぶりに件の少女漫画家のことを思い出した。それから間もなくして、仕事の合間にボ~ッとテレビを観ていたらNHKで萩尾望都先生の特集をやっていた。萩尾望都と言えば、少女漫画界の生ける伝説であり、功績は少女漫画、と言うか漫画の枠にはとても収まらない偉大な芸術家である。そんなことを出演者が寄ってたかって話す番組だった。出演者たちの萩尾愛は極めて深く、番組はとても面白かった。萩尾望都の作品は素晴らしい。そのことにわたしもまったく異論はない。しかし番組を観終わってみてしばらくしてからふと思った。出演者にどんな著名人を並べようと、こんなオタクの会合みたいな内容の番組をNHKでやるなんてNHKも変わったなぁ。これは良いことなんだろうか悪いことなんだろうか。わからんな。ひょっとしてなんか見失ってない?
 先の少女漫画家と同じように萩尾先生の場合もどんなに有名になっても、周りから評価されても母親からは漫画家という仕事を認められることは決してなかったそうである。サブカルチャーを持ち上げるのはいい。海外でも評価されてるし、素晴らしいものは素晴らしいんだから。でもやはり、と思うのである。「所詮ポンチ絵ですから」的偏見にも似た視点が、少なくとも造り手の中のどこかには必要なんじゃないかと。漫画にしろロックンロールにしろ、自らにのしかかる頭ごなしの保守の重い蓋をこじ開けようと四苦八苦してきたのがその歴史の一面なんで、それがなくなってしまったかのような今って、クリエーターたちは何か返ってやり辛そうに見えるのはわたしだけだろうか。相手にされないのは悲しいけど、人間誉められ過ぎるとロクなことはない。

『宮本武蔵』や『新・平家物語』で有名な吉川英治は文化勲章受章が決まったとき、自分は「大衆作家」だからという理由でそれを拒もうとしたらしい。その吉川を「あなた自身ではなくあなたの作品を愛してくれた人々の為にお受けなさい」とか何とか言って説得したのがあの小林秀雄だったというのはよく知られた話だ。小林秀雄といえば芸術院の会員だったりする時の権威である。権威がいつもこのような優しい言葉をかけてくれるわけでもないだろうが、小林秀雄はそんな人だった。「あなたがそう仰るのなら」と吉川英治は勲章を受け取った。これは権威というものが厳然と存在していた時代の心温まるエピソードだ。こういう「権威」はもういない。すべてを取り纏めようとするような「権威」なんて骨の折れる面倒なものになろうとする人間はもういない。古い時代が良かったとは思わないけれど、迷った時に判断を預けられる「権威」がいない世界はなかなか心細いものである。

 これはひょっとしたら今回の話に関係ありそうなので引用します。散漫な話がさらに散漫になりますが。

「もっとも私が幼い頃見聞きしたところによると、ディケンズの時代にはディケンズ風の人物はたくさんいたらしい。ディケンズ風の人物の中には偽善者がたくさんいたということは言っておいたほうがむしろよいかも知れない。ヴィクトリア時代の良き中流階級をいろいろ賛美して、この階級の人間が時折りひどく白々しい、勿体振った嘘を言うことがあったということを認めないとしたら公正とは言えないだろう。祖父の友人のある重々しい人物は日曜日に、教会へ行く気はぜんぜんないのに祈祷書を持って散歩する習慣だった。そして手を持ち上げて、「私がこうするのはね、チェシー、他人へのお手本になるようになんだよ」と弁解するのだった。こういうことをする人間は明らかにディケンズ風の人物だった。そして私にはそういうこの男は当節の多くの人間よりもいろいろな点でむしろましだという気がどうもする。偽善的であるにしてもこの男ほど鉄面皮になれる人間は当節は少ないだろう。単にゴルフをしに行きたいだけなのに宗教というものに疑問を持っているとか説教が嫌いだとか、曖昧なことを言う今の人間に比べて、この男のほうが実際にはもっと純粋なのではないかという気がするのである。当時は偽善自体がもっと真剣なものだった。少なくとももっと勇敢だった。」

チェスタトン「自叙伝」 

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Posted by aozame